9人委員会インタビュー
モデル、マーケティング・プランニング会社運営
佐藤 千夏さん

何歳からでも
立ち直って輝いて

UP DATE _ 2016.05.27

12年目の離婚通告 そして東日本大震災

 染め物と料亭を営む宮城の商家に生まれ育ち、商売を切り盛りする母の背中を見て大きくなりました。母は創意工夫が得意な人で、よく私と東京へ食べ歩きに出かけては和洋折衷のメニューや盛り付けなどを研究していました。私はといえば、創業50年という会社の跡継ぎに嫁いで、会社と従業員を守るために仕事をする毎日を送っていました。
 当時私は、質がよく環境にいい植物油燃料バイオディーゼル(BDF)作りを会社の業務とするために、専用の機械を購入し、素材として必要な廃油をレストランなどから集める仕事なども手がける日々を送っておりました。
また30代前半には経営塾にも通い、そこでメンターにも出会います。「社員への感謝をしているつもりでもしていない」と厳しく指摘され、迷いながらの手探りの日々を過ごしていました。
従業員と同じことを一からやって理解しようと、草取りからトイレ掃除までやりました。それでも仕事が好きでしたし、働くことで社会の役に立っている充実感もあって、年月は過ぎていったのです。
 ただ、子どもに恵まれませんでした。今の時代に信じられないことですが、「跡継ぎを産めない」という理由で、結婚12年目に離縁を言い渡されました。頑張ってきた仕事も、妻としても女性としても否定された。ひどく傷つき、実家に帰って引きこもるようになった直後、あの東日本大震災が起きたのです。

私を立ち直らせた被災児たちの強さ

 激しい揺れ、想像を絶する津波。幸い実家は壊れず、家族も私も無事でした。
凍えるような3月、水もガスも電気もない数日が過ぎ、やっとスーパーで日用品が買えると出かけて行きました。店頭のワゴンには人だかりができ、そこには子どもたちの姿も多く「弟が死んだ」「ばあちゃんが戻ってこない」など惨状を話しているのです。幼いその顔に、運命を受け入れようとする覚悟が見えて私は動けなくなりました。「この子たちはなんと強いのだろうか。無事だった私が、離縁と言われたぐらいで絶望してどうするんだ」と。
 この日から、人の役に立ちたいと強烈に思うようになり、「エンディングノート」を書き、気持ちを整理し、東京へ出てきました。出来ることを探し、被災地に元気を届けたい、メディアでも何でも使ってと意気込みました。でもそんな甘い考えで具体的にすぐ出来ることなどある訳もなく、わずかな人づてを頼りにご紹介いただいた仕事をほそぼそと始めたのです。嫁ぎ先の会社経営の経験を活かして、人や企業を繋げるお手伝いをするうちに、マーケティング視点でのアドバイスが仕事になってきました。でも、目先のクリエイティブ的な提案だけで、裏付けとなるロジックが足りません。マーケティングのプロに教えを請い、現場でそれを実践していきました。
 私が東日本で地震被災に会い、40歳でエンディングノートを書き、転機を求めて上京したことが珍しかったのか、メディアに取り上げていただくこともあります。でも、本業は企業のお役に立つことだと努力して自立を果たしていきました。そんな日々の中でいろいろな方に出会い、偶然そのうちのお一人に亡くなられた俳優の今井雅之さんがいらっしゃいました。舞台に命をかけ、主宰する劇団のメンバーを大切に育てる脚本家・演出家。初対面の私にさえ「花見をするから来い」と声をかけてくださる豪快な方でした。

集客を手伝ううちに演劇の裏方にも

 今井さんは、団員を育てながら自身で作品を書き、演出し、興行チケットを手配りして集客までなさっていました。私がお花見のお礼にと次の公演参加をフェスブックで呼びかけると、なんと50人も来場。今井さんは「君は集客力があるなあ」と喜んでくださり、それから公演のたびに集客やメディアPRを頼まれるようになっていきました。
 しかし、代表作である『THE WINDS OF GOD』公演に向けて奮闘中の今井さんにガン宣告がなされ、彼は「最も信頼する(奈良橋)陽子さんに演出を頼みたい。君も彼女と一緒にラストステージを完遂してくれないか」と頼まれました。出来ることは手伝いますと言ったものの、色々な事が起きてきます。奈良橋さんの温かい支えがなければとっくに折れていたでしょう。そして舞台をやり遂げた奈良橋さんには、今井さんの舞台作品『手をつないでかえろうよ~シャングリラの向こうに~』の映画化というバトンが渡されたのです。 私も広報協力などお手伝いをさせていただき、「奈良橋さんにだったら何でも捧げられる」と全力投球をしました。
 撮影は短期間でも、まるで今井さんの思いがそこにあるように美しい風景の中で進み、奈良橋監督の熱意がひとりひとりに火を灯すような、温かく強い映像が完成していきました。

私は、40代で一度大きな挫折をしましたが、その辛さを被災児の強さや人の信念に支えられて乗り越えられたと思っています。まだ、この先何歳になっても試練はあるかもしれない。でも大丈夫だと信じられるようになりました。生きていることに心からありがとうと感じています。

★奈良橋さんのインタビューをDoCLASSEでお読みいただけます。5月28日の映画公開に合わせて、ぜひご覧になってくださいね。インタビューはこちら

佐藤 千夏/Chika Sato
モデル、マーケティング・プランニング会社運営
1971年宮城県生まれ。28歳で環境関連会社の経営者と結婚、2011年の東日本大地震被災後、40歳で離婚を経験する。エンディングノートを書き、再出発を期して上京。42歳からモデルを始め、経営知識を活かしたコンサルティング・会社を主宰している。また映画・演劇などの広報等も手掛けている。

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